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おまえがいなきゃ生きてけない 3
「え、FCが抜いたらしいぞォ!!」
拓海の近くで、電話片手に、男が叫ぶ。 「場所は、三車線の先のコーナーだ!」 それを聞いて、中里がふうとため息をついた。 「やっぱりあそこで仕掛けたか…」 「ハチロクに抜き返されたトコだろ?」 慎吾も、まるでわかっていたような口ぶりだ。 そして拓海も、根拠はないが、なんとなくそんな予感がしていた。 「高橋涼介、すっげぇ突っ込みでドリフトして抜いてったらしいぞ! FDが引かなかったらぶつかってただろうってよ!」 ギャラリーたちはざわざわ騒ぎ出し、一気に熱気が立ち込める。 森崎はその様子を横目で見ながら、ぽかんとした顔をしていた。 「ぶつかってた、って…あの高橋涼介が、そんな乱暴なバトルを…?」 それを聞いて、中里がピクリと眉を上げる。 「……おまえ、F1がどうして300キロで走れるか、知ってるか?」 「えっ?」 いきなり話しかけられて、森崎はかなり動揺した。拓海の知り合いだと言うが、さっき気まずくなったばかりの相手だ。 つい助け舟を求めて拓海に視線をやるが、彼は神妙な顔で黙りこくっていて、なんだか話しかけられる雰囲気ではない。 森崎がわたわたしているうちに、中里はさっさと先を説明した。 「ドライバー同士に、暗黙のルールがあるからだ…ラインってのは、先にインに入ったほうに譲るもんなんだよ。それがコンマ一秒のことでもな」 今度は慎吾が頷きながら続ける。 「まあ、よっぽど相手の実力を信用してなきゃ、できねぇことだけどな。でなきゃ即クラッシュだ」 おまえがそれを言うか、と拓海はちょっとだけ思ったが、森崎はなるほどと感心していた。 彼らの風格は伊達ではないようだ。もしかして走り屋なのかな?なんて暢気なことを思う。 「…涼介さんの突っ込みが、啓介さんをほんのわずかに上回った…」 拓海が、ぽつりと呟いた。 涼介さん?啓介さん?なんだか知ったげな呼び方だなあ、と森崎は首をひねる。しかしすぐに、「そうか、ファンなんだな!」と一人で納得。 森崎がうんうんと頷いているのも目に入らない拓海は、中里を見上げて、聞いてみた。 「中里さん…このバトル、これで終わると思いますか?」 中里は視線だけ拓海によこし、すぐにまた目の前の道路を見つめる。 横で、慎吾が「なんで毅なんだ、俺にも聞けよ」と小さくぼやいた。 「さあな…俺はハナから、あそこで高橋涼介が抜きに行くのはわかってた…だが」 中里は、じっと見つめてくる拓海にニッと笑って見せた。 「なんとなく、このバトルはそれだけじゃ終わらない気がしてな。だからゴール地点でギャラリーすることにしたんだ」 拓海はしばらく目を見開いて固まって、やがて「なるほど…」と静かに俯いた。 確かに、そうかも知れない。 啓介が抜かれたと聞いたとき、やけにモヤモヤしたのだ。それは何も、恋人である彼に負けて欲しくないから、だけではない。別の何かが引っ掛かるのだ。 一部の人間にはそれがわかるのだろう。 このバトル、まだ何かが起きる。 (クソッ、クソッ!!) 啓介は盛大に舌打ちしながら、ステアリングを切る。 目の前のFCを抜き返そうにも活路を見出せず、あっと言う間にゴールに近づいて来た。 焦ればろくなことはないとわかっているものの、完全には冷静になれない。 (このまま、負けるのか…!?) 負けたらどうなる。 兄に勝てないのは、今までだってずっとそうだった。今日だって、正直イケるなんて思っちゃいなかった。 それでも決めたのだ。今日勝って、大事な話を、恋人にしようと。 負けるなんて選択肢はなかった。このまま負けたら、どうすればいい? (…違う!) そうだ。弱気になっている場合ではない。 もし負けたらなんて考えている時点で、勝つ可能性はゼロになる。相手はなんたってあの涼介だ。 ここまできたら、理屈じゃないのだ。 「負けなきゃいンだろォッ!!」 愛機FDだけが、啓介の咆哮を聞いていた。 そしてついに、ゴール地点目前。ここでもう一度、三車線のストレートが現れる。その先のコーナーを曲がれば、もうゴールだ。 「来たぞォ!!」 麓で待ち構えていたギャラリーが、一斉に身を乗り出す。 カーブの向こうから、2台のライトの明かりが見えてきた。 二つの重なったエキゾースト。 もう耳に慣れた音のはずなのに、なぜだろう。今日はなんだか違う気がして、拓海は無意識にごくりと喉を鳴らす。 そのとき、2台とは反対のほうから、ただならぬ気配を感じた。 「え…」 FCのサイドミラーに、外側へ飛び出した黄色が映る。 しかしここはゴールの数百メートル手前。それもコーナーで、外側からの追い越しは絶対に不可能だ。 ここまで来れば、勝敗は決している。 (勝負あったな…) コーナーの先を睨む涼介の視界に、白い光がちらついた。 反対車線側の木の葉に、チカチカと跳ね返るように輝くそれ。 (対向車…) もうすぐゴールだというのに、最後の最後で邪魔者が入ったか。そう思った。 これで後ろにいる啓介は、悪あがきすらもできなくなった。 ところが。 「…!?」 啓介のFDが、まったくイン側へ寄らない。 反対車線を逆走するように突っ込んできて、そのままコーナーに差し掛かった。まさかこの状況で、さっきやられたことをやり返すつもりなのか。 「無茶だ、正面衝突だぞ!!」 涼介が叫ぶも、ついにはFDがFCの横に並んでしまった。 そしてコーナーの入り口から、対向車の影が現れる。 「え…?」 その影は、なんと。 「ハチロクだァァ!!」 ギャラリーたちが、声をそろえて叫んだ。 2台が間もなくゴールというときに、向かいからやって来たのは、白黒のトレノ。 突如現れたハチロクめがけて、FDが突っ込んでいく。 「ぶ、ぶつかるぞ!!」 このとき涼介のFCは、すでにアクセルを緩め減速し、FDに進路を譲っていた。しかし今からどれだけインに寄ろうと、FDとハチロクとの接触は避けられない。 もっともそれは、相手がただのハチロクだったら、の話だ。 車体に刻まれた、”藤原とうふ店”の文字。 それが視界に入って、涼介はふっと笑った。 ハチロクは、FDとぶつかるほんの数センチ手前で、登板車線へギリギリで入り込み、華麗に180度スピンターンした。 まるで何事もなかったように、いや、最初からそこに停めるつもりでしたと言うほどのナチュラルさで、ハチロクは道路の隅で停車する。 そしてゴール地点を先に通過したのは── 黄色のFD。 「た…高橋涼介が、負けた…!」 ギャラリーの中の誰かが呟くと、次の瞬間、わっと歓声が上がった。 「FDの勝ちだァ!!」 ゴール地点を過ぎた2台のセブンは、先ほどのハチロクよろしくスピンターンして、道路の真ん中で停車した。 車中で啓介は、呆然とも言えるような表情で、ステアリングを握ったまま固まっている。 (……勝ったのか?) 両足が、少しだけ震えていた。 全身の筋肉も強張り、頭の中もぐちゃぐちゃになる。 啓介が浅い息を繰り返していると、兄のFCが発進する音が聞こえ、そこでハッと我に返った。慌てて涼介に続き、ハチロクのいる登板車線へとクルマを動かす。 ハチロクにならってFC、FDが、登板車線に一列に並んで停車した。 震える足を叱咤して、啓介はクルマから降りる。 「…まったく。無茶するぜ」 降って来たのは、兄の呆れたような、しかし優しい声だった。 「事故ってまで勝ちたかったのか?」 茶化すように言う兄を、啓介は意外だと思った。 普通ならあんな非常識な行動、誰もが激怒するだろうに、なぜこんなに落ち着いているんだろう。 いや。兄にはすべてわかっているのかも知れない。 「…なんとなくけど、向こうが絶対よけるって、確信があった」 まさかハチロクだとは思わなかったけど、と啓介はバツが悪そうに言った。 すると涼介がふふ、と笑う。 「なんとなく確信が…か。おまえらしいな。俺の最速理論も、野性の勘に負けたってわけだ」 涼介の顔は、負けたというのにすがすがしい。それに対して啓介は、勝ったはずなのに浮かない顔をしている。 こんな勝ち方で、いいのだろうか。もしハチロクが来ていなかったら負けていた。いや、それよりも、ハチロクがよけてくれなかったら、大惨事だった。 絶対いけるとは確かに思ったが、それは気持ちの問題であって、説明できるような根拠ではない。 負けたくないと思ったら、危ないなんて考えるより先に、とにかく身体が動いていた。それを「おまえらしい」と言うのは正解だろうが、それだけで済ませていいことなのか。 啓介がもやもやしていると、涼介が、ぽんぽんと頭を撫でてきた。 「いつも言ってるだろ、これだからストリートは面白い、って……それに、ここにハチロクが来たのも、きっと必然なんだ」 必然。それは、いつも理屈でクルマを走らせている兄らしくない、ロマンチックな言葉だった。 運も実力のうちなんて言葉もあるが、おそらく啓介は、その運を引きずり込んだに違いないと、涼介は思う。 このバトルの勝敗を最後に決めたのは── 「……愛の力、かな…」 誰にも聞こえない声で呟くと、啓介が気配だけ感じて「え?」と聞いてきた。 「なんでもない。それより、ほら」 涼介が、啓介の背中を強めに叩く。 「行って来いよ、藤原のとこへ。きっと、わざわざ噂を聞いて駆けつけてくれたんだろ」 「あ、ああ…」 すっかりほったらかしにされていたハチロクへ、啓介が歩み寄る。 すると待ち構えていたのか、ガチャリと運転席のドアが開いた。 *** 少々さかのぼって。 ハチロクが現れたときの、拓海たちの様子を見てみよう。 FDが逆走して突っ込んできたとき、拓海はそこにいる誰よりも早く、ハチロクの存在に気が付いた。高橋兄弟ばかりに目を向けるギャラリーの中で、拓海だけがガバッと反対側を向いたのだ。 そこには、あまりにも見慣れたハチロクの姿。しかも、猛スピードでこちらへ来る。 (おっ、オヤジィ!!?) あまりのことに、声も出ない。 目をこぼれるくらいに見開いて、口は顎でも外れたようにあんぐりと開いている。とにかく驚きまくった表情で、拓海はハチロクを目で追った。 クルマから湧き立つ、得も言われぬあのオーラ。間違いなく、豆腐屋の親父だ。 とんでもないスピードでFDとハチロクが向き合って、ギャラリーたちは息をのむ。 しんと静まり返った中で、ハチロクのスピンする音だけが、響いた。 「……」 「……」 目の前でFDをよけ、さらに狙い澄ましたように停車したハチロク。 そして、ハチロクの存在などまるで見えていなかったように、予定通りのラインを描くFD。その少し後ろから、すっかり緩んでしまったスピードでゴールするFC。 その場の全員が絶句したが、それはすぐに、歓声に変わった。 一気にヒートアップしたギャラリーの中で、拓海だけは頭を抱えてため息をついている。それに気づいた中里が、ハッとして話しかける。 「お、おい、あのハチロク、おまえのだろ?」 豆腐屋のハチロクなんて、群馬中さがしてもあれだけだろう。しかしドライバーである藤原拓海は、間違いなくここにいる。 では誰が乗っているのか。あんなドライビングができるなんて、どう考えても只者ではない。 中里の言いたいことを察した拓海は、彼にだけ聞こえるように、ぼそりと言った。 「……うちのオヤジっす」 そしてもう一度、ため息をついた。 「オヤジって……おまえの親父さん、あんなすごいテク持ってんのか!?」 「あのくらい、オヤジにとっては朝メシ前ですよ。俺が知ってる限り、この世で一番いかれたドライバーっすよ」 中里は唖然とした。 拓海は高橋兄弟はもちろん、県外でもかなりの強敵とやりあっているはずだ。いかれた、と言うと言葉は悪いが、おそらく誰よりもすごいドライバー、という意味なのだろう。 ずっと疑問に思っていた、拓海のドライビングテクニックの原点。この若さでこれだけの技術があるのは絶対に何かあると思っていたが、今やっと合点がいった。 あの父親に育てられたからだ。 高橋兄弟がクルマを停め、何やら話を済ませ、啓介がハチロクに向かって歩いていく。 するとハチロクの運転席のドアが開き、ぬっと人影が現れた。 豆腐屋の親父が。 「「……え?」」 啓介も、涼介も、そしてギャラリーたちも。全員が拍子抜けして、固まった。 秋名のハチロクが若くてカワイイという情報は、周知のことである。ではあれは一体、誰なんだ? 「…危ねえじゃねぇか。真っ正面から突っ込んできやがって」 タバコをくわえたまま、文太は抑揚のない喋り方で、啓介に向かってそう言った。 「す、すんません!」 ほとんど条件反射で、啓介は頭を下げる。 涼介も啓介も、文太とは面識があった。Dの活動が始まる前に、史浩とメカニックの二人を連れて、挨拶に行ったことがあるのだ。 しかし啓介はそれだけではない。なんせ恋人の父親である。カミングアウトはしていなかったが、友達のふりをして何度も家へ遊びに行った。 「…噂を聞いて来たんだけどよ」 啓介はぎくりとする。噂って、どれほどの情報が、彼の耳に入っているのだろう。 どうせならちゃんと自分の口で言いたかったのに、と啓介は唇を噛んだ。 「あのっ」 「ん?」 こうなったら、今からでも正々堂々と言おう。啓介はギャラリーたちの存在も忘れて、意を決して叫んだ。 「藤原を…拓海を、俺にくださいッ!!」 ギャラリーたちは、文太と啓介の会話が気になって静まり返っていた。そんな中、結構な声量でそのセリフだ。 拓海は動揺して、びくっと肩を揺らした。 (え…) それってまさか、嫁にください的なことを言っているのか。 じゃあさっきから噂になっていた、高橋啓介が秋名のハチロクにプロポーズって、ひょっとして本当の話なのか? 当の拓海がこの場にいることも知らず、文太と啓介は話を続けた。 「ウチの大事な拓海を、よく知りもしないペーペーには渡せねえなあ」 文太はタバコの灰を落としながら、意地悪くそう言った。その表情がなんだか楽しげだとわかるのは、長い付き合いの拓海だけだ。 (あ、あんのクソ親父…絶対おもしろがってやがんな…!!) 一体どうしてこんなところに出向いて来たのか、拓海は察しが付いてきた。 言葉に詰まっている啓介に、文太がにやりと笑いかける。 「俺とバトルして勝ったら……認めてやってもいいぜ」 さあ、とんでもないことになってきた。 耳を澄まして二人の様子をうかがっていたギャラリーたちが、にわかに沸き立つ。もう一本バトルが始まるみたいだぞと。 そして何人かが携帯電話を手にとって、こう触れ回った。 「次は秋名のハチロクの父親と、FDのバトルだ!」 啓介と文太は話がまとまったのか、さっさとお互いのクルマに乗り込み、猛スピードで秋名の山を上っていく。 その光景を見ていられず拓海が頭を抱えていると、隣で中里が何やらそわそわしていた。 「…? 中里さん?」 「……俺も頂上まで行って、バトルしてもらうように頼んで来ようかな」 「ええ!?」 「だって、親父さん、すごい人なんだろ? こんなチャンス、二度とないぜ!」 中里はこれ以上ない爽やかな笑顔で、取り出したクルマのキーを握り締めたまま、親指を立てた。 そして拓海が制止するのも構わずに、走って行ってしまった。 「…毅のヤツ、よくやるよ」 慎吾はその気はないらしく、中里の後姿を横目で見ている。 拓海は気付かなかったが、その後ろでギャラリーの一人が「中里毅だ、あいつも挑戦するらしいぞ!」と電話で伝えた。 それがどういうわけだか伝言ゲームとなり、頂上に伝わるころには、こう変わっていた。 ”豆腐屋の親父に勝てたやつが、秋名のハチロクを嫁にもらえるみたいだ”──と。 ところで。 森崎は、ハチロクが停車したあたりから、ずっと眉をひそめていた。 藤原とうふ店という文字。そして決定打は、啓介の「拓海をください」発言。 組み合わせると、どうしても自分の後輩の名前になってしまう。でも秋名のハチロクというのは、女だって言ってなかったか? 「…なあ、拓海」 「あ…はい?」 すっかり森崎の存在を忘れていた拓海は、間の抜けた声で返した。 「秋名のハチロクって、まさか…」 少し引き攣った笑顔で、森崎が拓海を見る。その視線を受けて、拓海は彼の言わんとしていることがわかった。 自分が秋名のハチロクだと、ばれたのだろう。さっきまで正体をわざわざ隠していた上に、同性である啓介と恋仲であることまで知られてしまった。これは気まずい。 「……すいません、なんか、言い出しづらくて…」 隠していたことをなじられるか、男同士で付き合っていることにドン引きされるか。めんどくさいなと思いながらも拓海が認めると、森崎の反応は、意外なものだった。 瞳はキラキラ輝きはじめ、さっきとは打って変わって興奮気味の表情になる。なんだかイツキの顔が思い浮かんだ。 「じゃあおまえ、秋名最速の走り屋!? 高橋涼介に勝ったり、プロジェクトなんとかでエースやってんのか!?」 森崎が大はしゃぎで声を張る。拓海がくすぐったい気持ちで頬を掻いていると、思わぬところから、聞き慣れた声がした。 「藤原?」 その、どんな女もイチコロであろう低音のハスキーボイス。 拓海の表情は凍りつき…ついでに森崎も固まった。 二人して首をひねり声がしたほうを見ると、高橋涼介がこちらに向かって歩いてくる。 「りょ、涼介さん…」 しまった、見つかってしまった。 「…来ていたのか」 涼介が拓海の目の前まで来ると、ギャラリーたちがざわめく。 「た、高橋りょっ…」 森崎が叫びかけたのを、そばにいた慎吾が小突いて止める。 だってなんだか、邪魔できる雰囲気ではない。 「悪いな、俺たちのせいで変な噂が立っちまって」 「い、いえ…」 涼介が申し訳なさそうに苦笑いを浮かべ、拓海は慌てて首を振った。 「……啓介から、何か聞いているか?」 穏やかにそう問われて、拓海は俯いて否定を示した。すると涼介は、「そうか」と言いながらため息をつく。 「…あいつにな。プロチームから、育成ドライバーのスカウトが来たんだ…」 「えっ!?」 弾かれるように顔を上げ、拓海は目を見開いた。そんな話、まったく聞いていない。 真っ先に出てきた言葉は、おめでとう、だったが── (……どうしてそんな、大事なこと…) 恋人の自分に黙っているなんて、おかしいんじゃないのか。 なんだか悔しい気持ちになっていると、涼介から思わぬ言葉が出た。 「そうしたら、急に結婚するって言い出して聞かなくてな」 彼はからっと笑ったが、拓海は急激に頭の回路が切れたような感じがした。 話の流れがよくわからない。なんで急に結婚の話になったんだ? 「俺は反対したんだ。駆け出しのレーサーほど不安定なものはない、家庭を持つなんて十年早いってな…」 このとき、森崎と慎吾は思った。平然と結婚結婚と言っているが、この国って同性婚できたんだっけ? しかしそんなツッコミを入れられるような勇気はない。 「それであまりにも聞き分けがないから、あいつが勝ったら認めてやることにしたんだ。俺にも勝てないようじゃ、プロになったって知れてるしな」 まあ負けるつもりはなかったんだけどな。そう話す涼介は、なんだか嬉しそうに見えた。 拓海は複雑な気持ちになる。 啓介がプロへの一歩を踏み出せることも、結婚したいと言ってくれる気持ちも、本当に嬉しい。でも、だからこそなおさら、どうして自分に、もっと早く話してくれなかったんだろう。 その様子に気付いた涼介は、拓海の頭をふわりと撫でる。 「悪かったな。俺が止めたもんだから、決着がつくまで藤原には話せなかったんだろう…」 なんでもお見通しの涼介を、拓海はすがるように見上げた。 「心配するな。あいつの愛は本物だぜ?」 にやりと笑われて、拓海の顔がかあっと赤くなる。 啓介の信頼する兄で、プロジェクトでいつも寸分違わない指示をするこの人が言うのだから、きっとそうなのだろう。 拓海の唇に、やっと笑みがこぼれた。 それを見た涼介も満足げに笑って、しかしすぐ、凛々しい顔で後ろを振り返った。 「ここにいる全員に頼みがある! 今日のことは、弟のプロレーサーとしての門出を占うためのバトルだった、ということにしておいてくれ。余計なことを喋ったら……わかるな…?」 関東のカリスマから、ブラックなオーラが染み出る。それを見て刃向える者などいるはずもなく、隠ぺい工作はあっさりと完了した。 ギャラリーたちの恐怖におののいた顔を確認すると、涼介は「さて」と腰に手を当てて、拓海に向き直った。 「俺も頂上へ行って、藤原の親父さんにバトルを申し込んで来るよ」 「ええっ? 涼介さんまで…」 「おまえも来るか?」 爽やかな笑顔に無条件で頷きそうになる。 いや、でも。 「…俺、ここで啓介さん待ってます」 本当に父とバトルをするのなら、きっともうすぐ降りてくるだろう。 涼介は「そうか」とFCのほうへ一歩踏み出す。 「……藤原」 しかし思案するように立ち止って、上半身だけひねって、拓海を振り返った。 「あんな弟だけど、よろしく頼むな」 彼の表情には、祝福と寂寞が入り混じっている。 拓海はそれに目の奥がツンとなるのを感じながら、力強く頷いた。 「…はい!」 今までで一番、頼りがいのある返事をして。 |